「何もしない」と思う事の難しさ。

まつを

2011年04月12日 01:22

人間の手に負えない、しかも自然界に存在しているものではないものが発生しているので、避難するのが当然のはずだが、この国ではどうやら違うらしい。むしろ、今こそ、日本という底力が試されているのだと皆意気込んでいる。多少の被曝は仕方が無い、それよりも復興をと急いでいる。原発をなくせと叫んでいる。鬱病患者は無茶苦茶多い国のはずなのに、鬱病的状況下での行動は、むしろ躁病的発想である。僕はつい二年前まで完全なる鬱状態から抜け出せずに苦しんでいたので、なかなかそんな流れと波長が合わない。
 鬱病の時の自分のことを振り返る。
 遠くで応援されていると嫌になる。遠くからこっちに来て、一緒に遊ぼうよと言われるとそこで楽しめるか不安になる。でも、こっちへ来て、なにも喋らなくてもいいから、食事と寝床はちゃんと用意するし、食事の時以外はほとんど話しかけないから、ゆっくりこっちで休みなさいと言われたら、安心して今まで堅くなっていた力をちょっとだけ抜いてぐったりしたくなる。鬱状態の時には、貧困感が増すので、お金を貰えるのはとてもとても嬉しい。音楽は基本的に頭に入って来ないので歌わないで欲しい。でも、時折一人で小さい音で音楽を聴いてみたときに突如、心が洗われる瞬間がある。僕はJUDEE SILL聴きながら、NICK DRAKE聴きながら波長が合うのを感じ、その時だけ集中することができた。だから、信頼している人から送られてくるMP3はとても嬉しくなる。youtubeはだから嬉しい。突然、元気な人が家の中に入ってきて、御飯を作ってあげるとか、贈り物を持ってきたとかテンション高く言われたら、凹む。でも、昼間布団干しといたよ、静かにしてるから寝てていいよ。と母親的な施しを受けると無茶苦茶楽になる。ちらかっている部屋を掃除するのもいいけど、もっとやりたいのは、そこから離れることである。見ないことにしておきたい。そして、その間、できることなら他人によって掃除してもらいたい。そのためにお金を払うのも嫌なので、余裕がある人に払ってもらえたら、それもまた楽になる要因になる。

零塾 -0円ハウス Kyohei Sakaguchi- 18(2011年4月10日(日))より

以前から何となく気になってた他称”カリスマホームレス”坂口恭平氏。詳しく何をやってるか知らないけど、ゼロから始める都市型狩猟採集生活なんて本を出してる人。
同郷の好で勝手に贔屓目に見て、年下だと解ってこれは応援しなければと思いつつ、行動の鋭さというか切り込み加減の躊躇無さに、深く、そして広く感じられる五つの歳の差を想像していた。色んな人を鹿児島に呼んでワークショップしたいなー、彼呼んだら面白そうだなー、なんて軽く思ってた。
そんな時にこの抑鬱体験記、極限の心理状態を代弁出来る彼に改めて興味をもった次第、そして現実を知ることとなった。

個々人の状態は異なるけれど、確実に被災地は総「鬱」傾向にあるようだ。カウンセラーを勤める仙台で被災した知り合いはこう語る。

大丈夫!そばにいます!一緒です!頑張って!祈ってます!これらの言葉を安易に被災者に使うべきではない。心の中で思うか、自分のメディアで発信する分にはいいのですが、多くの被災者が、あまりにも早いタイミングで直接これらの言葉をかけられ傷ついています。現実的なサポートか、黙って見守ること

良かれと思った多くのメッセージがマスメディアから流れていることで苦しんでいる人たちがいる。有名人が言葉に寄せる事、歌手が歌に込める事。思いはなかなか伝わらない。

今改めて思う。人間は分かり合う事が出来ない。だから諍いあうのだろうし、逆に寄り添う事ができるのかも知れない。だからこそこの不完全な「人間らしさ」というものが愛おしくてしょうがないのだろう。
復興なんて簡単なものじゃない。他人の気持ちなんてわかりっこない。痛みは分かち合えない。ただ時間が経ち、心が平穏となる日を待つしかない。







慰みかもしれないが、現実とは言えこんな終わり方では悲しすぎるので、昨日見つけた素敵なものを紹介します。昨日、荷解きで見つけた母親からの残暑見舞い、真っ白な葉書に貼ってあったのがこの切手。思わずハッとする美しさだった。
神戸で震災は起こったのだけど、こんな素敵な切手が出来た。これは気休めでも嘘でも、取り繕った相槌でもない。みんなが作り出した「想い」が形となったのだ。





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